つがーるパートナーさんのブログより
木造新田郷土カルタ30のご紹介です
30『たずね来し寺裏は秋日しみなられ 町の祖(おや)福士勘左衛門(ふくしかんざえもん)墓』
大沢寿夫

福士勘左衛門と思われる墓石が昭和30年頃、横町の光照寺の住職によって発見された。
風化して文字はほとんど読めないが、院号と正徳元年という文字は判読できる。
院号は相当に身分のあるものでなければ付けることが出来なかった時代である。
元木作村の派頭・三新田神社の建立者である福士勘左衛門に院号がつくのは当然と思うが、問題は年号である。
正徳元年(1711年)は観左衛門が信牧に会ってから90年後である。
そして、御蔵派の開拓が進み、御仮屋を中心に活況を呈していた頃であり、初代松木七衛門が商業によって財をなした晩年である。
開拓の成功によって経済的に安定した子孫が、初代を偲び供養のために建てた墓ではないかと想像している。
~木造町誌より~
とうことで、今回は新田木造の根本
三新田について調べてみました
弘前藩二代藩主信牧(のぶひら)は「新田開発令」を出し、本格的な新田開発にのりだします。
主な開発に「金木新田」(1662年~1676年/寛文元年~延宝4年)、「広須・木造新田」(1682年~1727年/天和2年~享保11年)、「俵元新田」(1704年~1728年/宝永元年~享保13年)などが挙(あ)げられます。
三新田神社は、もともと八幡宮といって、1615年産土神として建立された。四代藩主信政が、1672年、津軽三新田 (木造・金木・俵元) の開発にあたり、新田開発五穀成就の御祈願として、公費をもって、三新田神社としました
三新田とは俵元新田・金木新田・木造新田の三地域の総称であり
俵元新田とは現在の五所川原市原子のあたり一帯を指します
つまりは三新田神社とは現在の津軽平野部全域の新田の豊作を祈願した神社となっています
この新田開発が進められた当時、弘前藩は25組の行政区域に分けられていたそうです
組で言うと、俵元は飯詰組、金木は金木組、木造は広須組に所属していました
面白い文献をみつけました
下にあるのはその要約ですが
1776年に弘前藩では大地震があったのですがそのときの被害の報告では、25組の行政区域と同列で
三新田地域の報告がなされているのがわかります
和徳組十八ヶ村 家数五百八十余 人四千百余
堀越組拾七ヶ村 家六百七拾余 人四千四百四拾余
大鰐組弐捨六ヶ村 家千余 人六千八百四拾余
赤石組五十三ヶ村 家千四百余 人一万四千余
田舎館組十九ヶ村 家四百弐拾余 人弐千九百四拾余
藤崎組十六ヶ村 家六百九拾余 人四千六百五拾余
柏木組十七ヶ村 家七百四十余 人五千五百余
常盤組十九ヶ村 家四百四拾余 人三千三百九拾余
増館組十六ヶ村 家七百余 人四千七百八拾余
浪岡組弐拾弐ヶ村 家七百八拾余 人五千五百七拾余
飯詰組弐拾七ヶ村 家八百九拾余 人六千弐百余
俵元新田八ヶ村 家弐百四拾余 人千四百六拾余
金木組弐拾四ヶ村 家千弐百三拾余 人九千四百五十余
金木新田拾八ヶ村 家六百余 人三千弐百六十余
広須組六拾弐ヶ村 家千五百余 人一万四千四百八十余
木造新田七拾八ヶ村 家千余 人五千五拾余
横内組四拾五ヶ村 家九百五拾余 人七千二百七十余
浦町組弐拾弐ヶ村 家七百七拾余 人五千余
油川組弐拾六ヶ村 家千五百余 人七千百余
後潟組三拾九ヶ村 家千百八拾余 人九千四百余
赤田組弐拾弐ヶ村 家八百五拾余 人六千三拾余
広田組三拾九ヶ村 家千三百七拾余 人九千七百余
尾崎組十七ヶ村 家七百余 人四千六百四拾余
大光寺組十七ヶ村 家四百七拾余 人三千四百七拾余
猿賀組十九ヶ村 家六百六十余 人四千五百余
駒越組四拾七ヶ村 家千百七十余 人九千三百余
高杉組三十一ヶ村 家千余 人六千五百余
藤代組三十二ケ村 家九百九十余 人六千三
このことからもわかるように、
新田開発の重要性から、これを切り離して
新田地域を一つの行政区域と考えるようになっていったようです
これを考えると
広須→木作へと変化していった流れがよくわかります
三新田神社についてはこちらのサイトが便利です
ということでカルタ解説です
直訳『たずねていった寺の裏は 秋の日の光に染められていた その光が照らすものは木造新田の創始者の墓だった』
単語
★一般的に、「来し」はすべて「こし」と読む。(入試に役立つ古典文法講座より)
なる【▲為る】:ある状態に達する
られる[助動][られ|られ|られる|られる|られれ|られろ(られよ)]:軽い尊敬の意を表す
祖:創始者
解説)
木造町誌の解説には、三新田神社の建立者である福士勘左衛門となっていますが、正確には三新田神社の前身八幡宮の建立者のようです。木造新田を祭った、三新田神社の建立者を木造町の創始者と呼ぶことは当然のことなのかもしれません。
秋の日の光を用いて、新田木造の発展を表現し、その発展の礎になった先人を照らし・敬うことを表現した一首になっています。
三新田神社がすごいことはわかっていましたが、福士勘左衛門おそるべしです
木造新田郷土カルタ30のご紹介です
30『たずね来し寺裏は秋日しみなられ 町の祖(おや)福士勘左衛門(ふくしかんざえもん)墓』
大沢寿夫

福士勘左衛門と思われる墓石が昭和30年頃、横町の光照寺の住職によって発見された。
風化して文字はほとんど読めないが、院号と正徳元年という文字は判読できる。
院号は相当に身分のあるものでなければ付けることが出来なかった時代である。
元木作村の派頭・三新田神社の建立者である福士勘左衛門に院号がつくのは当然と思うが、問題は年号である。
正徳元年(1711年)は観左衛門が信牧に会ってから90年後である。
そして、御蔵派の開拓が進み、御仮屋を中心に活況を呈していた頃であり、初代松木七衛門が商業によって財をなした晩年である。
開拓の成功によって経済的に安定した子孫が、初代を偲び供養のために建てた墓ではないかと想像している。
~木造町誌より~
とうことで、今回は新田木造の根本
三新田について調べてみました
弘前藩二代藩主信牧(のぶひら)は「新田開発令」を出し、本格的な新田開発にのりだします。
主な開発に「金木新田」(1662年~1676年/寛文元年~延宝4年)、「広須・木造新田」(1682年~1727年/天和2年~享保11年)、「俵元新田」(1704年~1728年/宝永元年~享保13年)などが挙(あ)げられます。
三新田神社は、もともと八幡宮といって、1615年産土神として建立された。四代藩主信政が、1672年、津軽三新田 (木造・金木・俵元) の開発にあたり、新田開発五穀成就の御祈願として、公費をもって、三新田神社としました
三新田とは俵元新田・金木新田・木造新田の三地域の総称であり
俵元新田とは現在の五所川原市原子のあたり一帯を指します
つまりは三新田神社とは現在の津軽平野部全域の新田の豊作を祈願した神社となっています
この新田開発が進められた当時、弘前藩は25組の行政区域に分けられていたそうです
組で言うと、俵元は飯詰組、金木は金木組、木造は広須組に所属していました
面白い文献をみつけました
下にあるのはその要約ですが
1776年に弘前藩では大地震があったのですがそのときの被害の報告では、25組の行政区域と同列で
三新田地域の報告がなされているのがわかります
和徳組十八ヶ村 家数五百八十余 人四千百余
堀越組拾七ヶ村 家六百七拾余 人四千四百四拾余
大鰐組弐捨六ヶ村 家千余 人六千八百四拾余
赤石組五十三ヶ村 家千四百余 人一万四千余
田舎館組十九ヶ村 家四百弐拾余 人弐千九百四拾余
藤崎組十六ヶ村 家六百九拾余 人四千六百五拾余
柏木組十七ヶ村 家七百四十余 人五千五百余
常盤組十九ヶ村 家四百四拾余 人三千三百九拾余
増館組十六ヶ村 家七百余 人四千七百八拾余
浪岡組弐拾弐ヶ村 家七百八拾余 人五千五百七拾余
飯詰組弐拾七ヶ村 家八百九拾余 人六千弐百余
俵元新田八ヶ村 家弐百四拾余 人千四百六拾余
金木組弐拾四ヶ村 家千弐百三拾余 人九千四百五十余
金木新田拾八ヶ村 家六百余 人三千弐百六十余
広須組六拾弐ヶ村 家千五百余 人一万四千四百八十余
木造新田七拾八ヶ村 家千余 人五千五拾余
横内組四拾五ヶ村 家九百五拾余 人七千二百七十余
浦町組弐拾弐ヶ村 家七百七拾余 人五千余
油川組弐拾六ヶ村 家千五百余 人七千百余
後潟組三拾九ヶ村 家千百八拾余 人九千四百余
赤田組弐拾弐ヶ村 家八百五拾余 人六千三拾余
広田組三拾九ヶ村 家千三百七拾余 人九千七百余
尾崎組十七ヶ村 家七百余 人四千六百四拾余
大光寺組十七ヶ村 家四百七拾余 人三千四百七拾余
猿賀組十九ヶ村 家六百六十余 人四千五百余
駒越組四拾七ヶ村 家千百七十余 人九千三百余
高杉組三十一ヶ村 家千余 人六千五百余
藤代組三十二ケ村 家九百九十余 人六千三
このことからもわかるように、
新田開発の重要性から、これを切り離して
新田地域を一つの行政区域と考えるようになっていったようです
これを考えると
広須→木作へと変化していった流れがよくわかります
三新田神社についてはこちらのサイトが便利です
ということでカルタ解説です
直訳『たずねていった寺の裏は 秋の日の光に染められていた その光が照らすものは木造新田の創始者の墓だった』
単語
★一般的に、「来し」はすべて「こし」と読む。(入試に役立つ古典文法講座より)
なる【▲為る】:ある状態に達する
られる[助動][られ|られ|られる|られる|られれ|られろ(られよ)]:軽い尊敬の意を表す
祖:創始者
解説)
木造町誌の解説には、三新田神社の建立者である福士勘左衛門となっていますが、正確には三新田神社の前身八幡宮の建立者のようです。木造新田を祭った、三新田神社の建立者を木造町の創始者と呼ぶことは当然のことなのかもしれません。
秋の日の光を用いて、新田木造の発展を表現し、その発展の礎になった先人を照らし・敬うことを表現した一首になっています。
三新田神社がすごいことはわかっていましたが、福士勘左衛門おそるべしです
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この記事へのコメント
町の福士さんは一族の家系なんでしょうか。
深いですねあいかわらず。
深いですねあいかわらず。
2010/01/19(Tue) 08:05 | URL | #-[ 編集]
おはようございます
そうですね、福士姓は、木造の伝統ある苗字なんですね
そうですね、福士姓は、木造の伝統ある苗字なんですね
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